震災以降,各地で色々な人が募金をしたり,救援物資を決められた集積場に送ったりしている。こうして募金や救援物資を“託す”人がいるということは,それらを“託される”人もまたいるということだ。“託す”人はもちろん,“託される”人も善意でやっているのだと信じている。しかし,“託される”側の人は,お金や物を特定の使途に充てる目的で託された以上,善意だけでは済まないことは間違いない。むしろ,善意以前に“仕事”であるということを今一度思い出すべきだろう。
震災から18日が経過しようとしているが,その間も被災地の状況は良くも悪くも刻一刻と変化しているようである。
救援物資を募る側が現地と密に連絡をとって,生の声を反映させる必要があるというのはよく言われるところであるが,先の引用からすると,“生の声”では遅いのかも知れない。生の声を反映させて救援物資を募り,現地に送り,現地で仕分け作業を行って避難所等に届けるまでに,その要望は変わってしまっているかも知れないからだ。
その意味で,とりわけ救援物資を募り,送る際には将来予測という想像力を働かせることが不可欠であることになる。せっかくの善意及び善意を募った“仕事”も,“過去の要望”に応えるだけでは意味がないどころか,ただでさえ滞りがちな<仕分け-分配作業>を更に遅れさせることになりかねない。
「やらない善よりやる偽善」 という使い古された言葉があることは有名であるが,これは,いついかなる場合でも問答無用で通用するような優れものではない。ここでも想像力を働かせる必要がある。「やる偽善」によって,どのような<利益-不利益>が誰にもたらされるのか。その利益は当該不利益を掻き消すほど大きなものなのか等々。
最後に,John V. Roos 駐日アメリカ大使のtweetを引用しておくことにする。